軍歌余談

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爆弾三勇士

■昭和7年1月29日上海海軍陸戦隊が閘北で第19路軍と戦火を交えたため、久留米第12師団の一部は直ちに混成第24旅団に編成され2月2日動員令がくだり2月日久留米を出発、2月7日には上海に着くというあわただしい出動であった。
これに続いて上海に上陸したのが金沢の第9師団で、2月18日には日本軍の諸部隊は戦闘配備を完了。植田謙吉軍司令官名で中国台19路軍蔡廷楷司令に対して最後通牒を発したのである。

廟行鎮の爆弾三勇士が新聞報道で発表されはじめたのは昭和7年二月二十四日頃からであった。
 日本国中に衝撃と感動の大波瀾を巻き起こした。各新聞が連日三勇士の詳報を報道し往年の広瀬中佐・橘中佐にまさる軍国美談として、やがては教科書にまで書かれることになるのではないかとまで報道した。
「ニューヨークタイムズ」は”日本精神の極致”と書き讃えた。


イラスト
江下武二 伍長

イラスト
北川亟 伍長

イラスト
作江伊之助 伍長

■ 突然に「軍神の母」に祭り上げられたこの三人の母親たちは毎日のように訪れる新聞や雑誌社の記者、カメラマンの前でおろおろしながら、しかし勇士の母として決して涙を見せてはならず健気にも「名誉です」と答えねばならなかったのである。

江下一等兵の母は佐賀県杵島郡大町村の貧しい炭坑長屋に住み、北川一等兵の母は長崎県北松浦郡の山間の農家にいた。
 また作江一等兵の母は長崎県の平戸で作江の兄が大工をしながら生計をたてるという、いずれも貧しい家庭である。
 マスコミは、この肉弾三勇士を空前絶後の戦争美談に仕立て上げてしまった。


東活キネマは「忠烈肉弾三勇士」の製作をはじめ、演劇界でも歌舞伎、新歌舞伎、新派、松竹レビューにいたるまで「肉弾三勇士」の歌が全国津々浦々の巷でうたわれた。
爆弾三勇士
与謝野 寛 作詞
辻 順治  作曲

(1)
廟行鎮(びょうこうちん)の敵の陣
われの友隊すでに攻む
折から凍る二月(きさらぎ)の
二十二日の午前五時

(2)
命令下る正面に
開け歩兵の突撃路
待ちかねたりと工兵の
誰か後れをとるべきや

(3)
中にも進む一組の
江下北川作江たち
凛(りん)たる心かねてより
思うことこそ一つなれ

(4)
我らが上に載くは
天皇陛下の大御稜戚(おおみいつ)
うしろに負うは国民(くにたみ)の
意志に代われる重き任

(5)



(6)
大地を蹴りて走り行く
顔に決死の微笑あり
他の戦友にのこせるも
軽く「さらば」と唯一語

(以下、10番まで略)

豪胆機敏敵陣に身をもて開く突撃路 轟然あがる爆音に 突撃の機は熟したり 進め義烈のわが戦友(とも)よ われらのかばね乗り越えて




▲イラストは廟行鎮(びょうこうちん)の爆弾三勇士が散った現場で黙祷(もくとう)を捧げる日本軍の兵士たち


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天皇陛下万歳―爆弾三勇士序説 (ちくま文庫)

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